奇跡 もう半年以上が経ったというのに、あの8月11日の明け方のことは忘れられない。数日前から天気予報を睨みつけながら、ただひたすら晴天を祈るばかりだったが、前日夜半から雲が出始め、深夜には星も見えづらくなってくると、いよいよ不安は高まった。ほとんど一睡もできないまま(眠れなかったというよりやらなければならないことがあったからだが)、夜明けを迎えた。安曇の山々の峰が少しずつ陽に照らされていくにつれ、それまで灰色だった空がゆっくりと水色に、そして青にと変化していった。待ち望んだ晴天の空がやってきた。一つの奇跡が起こった瞬間である。
奇跡はそれだけではない。もう大会の準備段階から何度も我々事務局職員は味わってきた。前例のない取組なぞ信用されなくて当たり前なのに、国の機関をはじめ多くの皆さんの協力が得られ、短期間の中で我々の手が遅いことも十分理解してもらいながら、円滑に準備を進めることができた。いろんな障害が発生しても必ず助けてくれる人が現れた。そもそも山の日がこんなにも早く誕生したこと自体、奇跡的である。
奇跡の陰で誰かがどこかで苦労してくれた。奇跡の数だけ感謝がある。
軌跡 大会はいろんな課題はあったけれど、晴天に恵まれ、多くの人々の参加を経て無事に終了することができた。まつもと市民芸術館に「山鐘」が鳴り響き大会の終幕を告げた時、山の日に新しい歴史の1ページが刻まれた。実は事務局員はそれぞれの持ち場に張り付いていたので、この山鐘による大会終了を実感したものはわずかしかいない。皆、最近になってDVDダイジェスト版を観てようやく知ったようなものだ。大会の終了後、我々は決算作業を行い、年末に実行委員会を開催し、行事実績と決算を承認してもらい解散した。それを含めて最終的に記録誌を編纂し、3月に校了を迎えた。この記録誌はこれまで見てきたものと少し様子が違う。先例がないので自由にできるという面白さはあったが、反面、今後のスタンダードとなるかどうかというプレッシャーも感じていた。作り始めてみると、皆、担当した行事等への思いの強さから、大会当日の記録より、そこに至るまでの様々な苦労を書きたいという意欲が高まっていることに気がついた。そこで、大会当日の記録の多くはDVDに任せ、本冊は準備段階の記録を丁寧に記載するよう心掛けた。事務局の軌跡を残すために。
今年は栃木県那須町で第2回大会が開かれる。先般のスキー場で起きてしまった雪崩による事故には、失われた若い命に心より哀悼の意を表するとともに、御親族そして被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げる。山鐘の8番目に「山で亡くなられた方々への思い」を込めて鐘を鳴らすことにしている。山は美しく楽しいことばかりでない。大自然の脅威を身近に感じる場所であり、命の危険を伴うこともある。それも含めて山の日はある。第1回大会の開催地として、そうした思いも含めてしっかりと引継ぎ、軌跡をつないでいきたい。
貴石 改めて記録誌のページをめくると、一つひとつのできごとに感謝の気持ちばかりが浮かんでくる。編集後記の冒頭に書かれているように、担当者にしてみれば大会前日までの準備段階で既に自らの気力体力の限界は越え、間に合っていないことも足りないことも反省しつつも時間を味方につけることができず、本番に臨んだ部分もいくつかあった。それでも誰かがどこかでそれをちゃんと繕ってくれ、繋いでくれた。我々事務局職員にとって、多くの皆さんと一緒に仕事をした10か月間はかけがえのない宝物である。それはどんな宝石よりも鈍くざらざらして美しくないかもしれない。けれどどんな宝石よりも硬く輝いている。この貴石は生涯失われることはなく、さらに第2回、第3回とつながれていくことで磨かれ輝きを増していくに違いない。
3月31日、本日付けでこの松本市山の日記念大会推進室は役目を終える。たった540日余りだったけれど、この事務室には収まりきらない沢山の思い出が詰まっている。そのわずかな断片をこの部屋の片隅に展示品として残していくので、機会があったら覗いてほしい。素晴らしき仲間たちとの、あの夏の日のことを少しでも思い出してもらえるかもしれない。結びに、これまで御協力いただいた全ての皆様に改めて感謝を申し上げ、皆様にとって、山との良い関係が永遠に続くことを祈念して筆を置く。
ありがとう、みんな。ありがとう、山の日。いつかまた、山で逢おう。
平成29年3月31日
松本市山の日記念大会推進室
室長 加藤銀次郎
栩秋隆哉 山昇 加藤孝
春原亘 大久保美穂 内川紗優里